講演では、シリア、ウクライナ、朝鮮半島をつなぐ「難民」の存在を例に、戦争や暴力などによって、帰る故郷を失った人びとおよびその子孫との「共生」が可能となるような社会のメンバーシップのあり方について、現在鄭暎惠さんがお住まいのカナダの事例を交えながら論じられた。
難民が「普通の一市民」、つまり差別や暴力にさらされることなく、対等に社会と政治に参加できる権利をもつ市民となるために、鄭暎惠さんは「自己を語り、他者の声を聞く」場の重要性を強調する。そして、同様の課題は、「マジョリティ」と「マイノリティ」の間の断絶状態が依然として継続し、対話の機会が奪われている日本においてきわめて喫緊の問題であると指摘する。
他者との継続的な対話が重要であることは十分に理解できる。しかし、そうは言いつつも私たちは具体的にそれをどのように実践すればよいのだろうか。ここで「共生」の方法として、鄭暎惠さんは「マジョリティにとってのインターセクショナリティ」という観点を提示する。複数の差別が交差するときに起こる、抑圧や不利益の経験を理解する枠組みとして近年注目される「インターセクショナリティ」は、社会的に周縁化され、被抑圧的な地位にある集団ないしカテゴリーのなかでしばしば議論がなされてきた。しかし権力関係や構造化された社会的抑圧の克服はかならずしも「マイノリティ」のみに課された問題ではない。他者と向き合いながら、自己の「加害者性」とともに「被害者性」を発見する。自身の社会的位置とそれを取りまく「構造的差別」をみつめなおす。このようにして鄭暎惠さんは「マジョリティ」とされてきた人びとにとってのインターセクショナリティをみることの重要性を説くのである。
考えてみると、鄭暎惠さんの考えは1990年代から一貫してきたのではないか。これまで鄭暎惠さんは、みずから反差別運動に参加するなかで、「支援する/される」関係に内在する権力構造を強く批判してきたほか、だれもが差別する側/される側、加害/被害の境界をまたいで立っているのにもかかわらず、同一なる「内部」、異質なる「外部」という、一枚岩的なカテゴリーで抑圧の問題を理解しようとする見方に対して厳しいまなざしを向けてきた。単一の〈私〉ではなく、複数の〈私〉を発見し、語りつづけることの重要性を指摘した「アイデンティティを超えて」(1996年)は、今なおアクチュアリティを持つ議論である。つまり、鄭暎惠さんがいう「マジョリティにとってのインターセクショナリティ」とは、ご自身の学問と実践の往復のなかで紡ぎだされた観点であり、同一化された「自己」と「他者」の境界を超える「解放」の手がかりとして私たちに提示してくれているのではないだろうか。
興味深いことに、その後の質疑応答では、複数の質問者がみずからの経験や葛藤を語り、鄭暎惠さんがそれに応答するというやりとりが続いた。また、講演終了後にも多くの人が鄭暎惠さんのもとに集まり、語りあう姿がみられた。このような光景は、研究会という場ではなかなか目にするものではないが、会そのものが複数の〈私〉を発見し、語る場としての役割を果たした何よりの証拠だろう。学問と実践に深くたずさわってきた鄭暎惠さんでなければできなかったことである。
⽇時:2022年4月22日(⾦) 17:00–19:00
会場:同志社⼤学今出川キャンパス良⼼館RY107教室
講師:鄭暎惠(チョン・ヨンへ)
企画・主催:MICCS(同志社大学・都市共生研究センター)